フィリピン教育訪問・参加者より

 毎日の予定はびっしり決まっていて、たくさんのNGOの事務所を訪問して情報を交換したり、大学や高校にも行きました。高校では授業を見学させてもら い、先生たちと話をし、生徒会の役員の生徒たちとも語り合うことができました。(フィリピンは雨季と乾季にわれており、8月は雨季。一番暑い4、5月が夏 休みだそうです。)教育制度は小学校―高校―大学が6-4-4年で大学入学は16歳。家の中や友だち同士では土地のことばで話しているが、授業や一歩町へ 出ると『英語』で、学校を出ている人は英語を普通に話します。町の看板や交通標識も英語で英語社会なのだということを知りました。(今回の訪問で、実にた くさんの人と出会い、話し合いましたが、日本人以外とはすべて英語でした。)
 ―本当に初めて知ったことばかりでした。
 行く前に、本を何冊か読んでにわか勉強をしました。フィリピンでは国立博物館や歴史博物館などにも行き、歴史の勉強もしました。日本とは昔から関わりが あったのですが、江戸時代、アジア・太平洋戦争での侵略・虐殺、そして現在と深いつながりがあります。第一、顔がとてもとても似ています。日本人の祖先の 源流が南方にあったということをしみじみ実感しました。
 フィリピンは400年間スペインに植民地にされ、スペインを相手に独立運動があり、19世紀のおわりにスペインがアメリカに負けて、アメリカがフィリピ ンを買いました。そしてフィリピンが独立しました。ですから、フィリピンはスペインやアメリカの影響をたくさん受けています。現在英語を使っていることも そのひとつです。もちろん、たくさんの血がまざっています。
 フィリピンは島国です。87の言語があり、主な言語は8つだそうです。そのひとつがタガログ語。ということは、たくさんの文化があるということになりま す。ほとんどのフィリピン人はカトリック(キリスト教)を信仰していますが、南部の人たちはイスラム教です。
4日目に首都のマニラから北20kmにあるパヤタスというところに出かけました。そこはマニラで出るゴミの巨大な集積所です。マニラではゴミを燃やすこと が禁じられているので、1日550台のトラックがゴミを捨てにきます。そのゴミの中から缶やプラスチックなど金になるものを、よりわけて拾い、生活してい るたくさんの人がいます。子どももたくさん混じっています。そこは谷がだんだん埋め立てられて山になってしまっているところで、今は閉鎖されてしまったス モーキーマウンテン(アジア最大のスラム、世界3大スラムのひとつ言われた)にかわって、「スモーキーバレー」と呼ばれています。ゴミの山の周りには何万 人もの人が住み、ゴミを生活の糧にしているのです。1日の平均収入は500~600円とか…衛生状態は悪く、病気が発生したり、障碍をもって生まれてくる 子どもの確率も高い。そして、悪臭があたり一帯を漂っていました。行きたくとも学校に行けない子どもも多く、ゴミを運ぶトラックに轢かれる子どももいると いいます。3年前に大雨でゴミの山がくずれ、1000人もの人が生き埋めになった事件がありました。今、ゴミからしみでた毒による地下水の汚染が問題に なっています。
 私たちは、そこに居をかまえて活動している33歳の牧師さんから話を聞き、住民を支援する集会所や保育所を案内してもらいました。車椅子や手のない若い 先生が、耳が聞こえなかったり、話せない子どもたちを教えているところにも連れて行ってもらいました。ドイツ人の医者が診療所で働いているそうです。おり しも土砂降りの雨になり、泥だらけの道をトラックが通っていきます。かぎのついた金属の棒をもった子どもが濡れながら歩いています。家は、とても家とはい えないものです。写真にとっては申し訳ない気がして、シャッターは押せませんでした。以前、見たドキュメンタリー映画『神の子たち』(四ノ宮浩監督)のな かで、パヤタスの住人が言った言葉を思い出しました。「泥棒するくらいなら死んだ方がましだ。」誇り高い人だと思いましたが、生きるためには犯罪を犯すこ ともあって不思議はないと思いました。
  フィリピンは貧富の差がとても大きいと聞いています。パヤタスだけでなく、道路から見えるだけでも屋根と柱しかないような貧しい家があちこちにありまし た。また、大人や子どもの物売りが、街頭や車が走っている道路の真ん中で、新聞、飲み物、お菓子、サンパギータの首飾り、たばこ(1本から)などを売って いました。どれだけ売れるのか心配してしまいました。
 それでも道路はどこも交通渋滞。車はよくなった、と言います。乗り合いバスのようなジープニーが数え切れないほど走り、タクシーがわりの三輪車がよく利 用されています。なぜか自転車に乗っている人はほとんど見かけませんでした。
 フィリピンでは学校を卒業しても職がなく、また教員の給料も大変低いとのことで、教員を辞めて香港でメイドとして働いたり、看護婦の資格があってもアメ リカで病院の下働きをして、家族に仕送りをしたりしている人が多いそうです。フィリピンの人は家族や身内をとても大事にするということです。しかし、圧倒 的多数の女性は日本に来てクラブなどで働いているそうです。(男性は船乗りが多い。)結婚する・しないにかかわらず子どもが生まれて、父親が面倒をみない (みられない)ために、日本やフィリピンの学校でいじめられたりしている子どもを援助している3つのグループを訪問しました。そのうちの一つでは混血の子 どもたちに会いました。うち9人が日本に来てミュージカルをやります。
 たった8日間でしたが、たくさんの人に会い、いろいろな人のお世話になりました。珍しいこともあれば、ショッキングなこともありました。気がつかないこ と、知らないこともたくさんあるはずです。
 (府川 幹夫)